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異議

科技庁原子力安全局長→【臨界事故】→《更迭》→(3ヶ月)→科学技術政策局長就任
科学技術庁事務次官→【臨界事故・H2ロケット失敗】→《引責辞任》→(7ヶ月)→日本原子力研究所副理事長就任

おかしい!!

 (2000.6.30)


実用ホームページ?

 成美堂出版から本日発売の「すぐに役立つ 実用ホームページ 888+α Part10 夏・秋号」にMoomin Valley Site Mapが掲載された。mteraさんと共同運営し始めてから丸二年。三年目に突入したところ。今後も楽しく続けていけるといいな。

 (2000.6.28)


額紫陽花と猫

 通勤路に紫陽花(あじさい)の名所がある。様々な種類の紫陽花が様々な色で咲き誇っている様は壮観である。しかし、この季節は紫陽花を写生する人、撮影する人でごったがえし、歩くのにも苦労する---その点が難と言えば難。
 そんな毎日だが、雨が降っている日は観光客や写生・撮影の人もおらずヒッソリとしている。そういう時こそ風情があってよい。傘に当たる雨音、いつもと違う空気の匂い、いつもより静かな街の音、濡れそぼつ紫陽花…。そんな風情を楽しみながらゆっくり歩く。

 そんな或る日、額紫陽花の下に雨宿りしている猫を見た。お行儀よくいわゆる「猫座り」をしている。後ろ脚は畳み、背を立てて、前脚を地上に直角に真っ直ぐにおろしている姿。とても絵になる風景でつい立ち止まってしまった。カメラを持っていたら撮影したかったような一幅の絵…。
 しかし、首輪もしていないし野良猫だろうその猫は、とても鋭い目をしていた。それが画竜点睛を欠く感がして(勝手な話だが)、何とかその目を和らげたいと、私はその猫の前で独りおどけてみせたりした。でもその猫は身じろぎもせずじっとしている…。
 出勤せねばならないのでその場を立ち去った。また遭えるだろうか、あの猫に…そう考えながら毎日額紫陽花の下を覗き込む今日この頃である。しかしあれ以来あの猫に遭う事は出来ていない。

 (2000.6.21)


地中海

 英語の中で一番長い単語は「Mediterranean」だという。地中海と訳されるこの単語、単に「ちちゅうかい」という符号と思って聞いている分には意味までは考えない。「エデンの東」で書いたように「秋葉原」「神田」の言葉の意味を考えないのと同じだ。
 しかしこの単語を分解してみるとなかなか興味深い。例によってラテン語から来ているこの言葉、「medi」「terra」「an」「ean」に分けられる。ラテン語は知らないのだが、「Medi」と「Terra」は想像がつく。「Medi」はMediumなどから連想するに「真ん中、中心」という意味だろう。「Terra」は「地球、大地」の意。
 つまり「大地の真ん中」という意味だ。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸に挟まれてまるで大地の真ん中にぽっかりとある海、そんなイメージだろう。
 で、面白いなと思うのは「Terra」という言葉が「大地」という意味であるとともに「地球」という意味でもあること。「地球の真ん中」という意味にもなる。中国の中華思想、アメリカの「America is No.1」と同様な匂いがする。

 (2000.6.21)


麦茶 〜シリーズ「オフィス街の風景」〜

 6ヶ月ぶりの、シリーズ「オフィス街の風景」、いってみようっ!
 今日紹介するのはこちらっ!その名も
全国麦茶協同組合
だっ!
 すごいなあ。一体毎日どんな仕事がされてるんだろ。会議とかどんな様子なんだろ。冬場は暇なんだろうか(笑)。

 (2000.6.21)


ベビースターぐるぐるもんじゃ

 いただきものの「ベビースターを使ってつくるソース味ぐるぐるもんじゃ(下町の味)」を食べた。
 (私にピッタリの贈り物ありがとう、Aさん)
 付属のカップに特製ベビースターをあける。その上から特製粉末スープをかける。お湯をベビースターが丁度全部浸るくらいにかける。そして付属スプーンでぐるぐると混ぜる!
 うまい!いや別にうまくはないけど、なんだか面白いからいいぞ!味も食感もなかなかもんじゃ風に仕上がっている。いいぞ、ベビースター!いいぞ、おやつカンパニー!これからも頑張って。

 (2000.6.6)


読書人である私

 家畜人ヤプーを読んでいる私だが、実は現在トゥーヴェ・ヤンソンの著作であるムーミン・シリーズの再読もおこなっている。私は一体何者なのか…。

 などと奇書にひきづられて変な気持ちにもなるが、要は「人間には幅がある」ということだろう。その幅は人それぞれであり、その個人にとっては整合性が取れていると思うのだ。つまりどんなに離れているように見える「個人の二つの嗜好」でも、そこに「その個人」を与えれば「整合性」という解はあるのではないか、ということ。

 しかし現実にはそんな演算は本人にも行えるものではない。本人にとっても「整合性」は明らかにはできないものだろう。『ヤプー』と『ムーミン』、それを読む私……どうにも理屈がつきそうもないのだが。

 このままこの二つを並行して読み進めていたらあまりの振幅に私が保ちそうになさそうだ。既に精神的に参り始めている。
 「じゃあ読まなきゃよい」のだが読んでしまうんだなあ、これが。読書人としてこれしきの読書体験に負けたくはないという馬鹿みたいな矜持があるのかなんなのか。

 (2000.6.6)


続・家畜人ヤプー

 とても万人にお勧めできる内容ではない。万一読んでみようと思った人がいても「とりあえず購入は一巻だけにしておきたまえ」と言いたい。これを読むのは非常に精神的体力が要る。疲れる…。残業後の帰宅電車内で開くのも嫌だ。これを五巻全部読めるのか自分でも甚だ心許無い。
 これが文庫本一巻くらいなら或いは「名作」になったかもしれない。しかし…微に入り細に入りサディステッィクに且つマゾヒスティックに目を潰したくなるようなことを何ページにも亘って偏執的に書き連ねて全五巻…これは一体…。沼正三とは一体何者なのだろう…彼をここまで突き動かすものは一体何なのだろう…。
 これほど不快且つ嘔吐的(ディスガスティング)な書物は非常に稀だ。そしてこれほど悪魔的な力を持って読者を(つか)んで離さない書物もまた。

 (2000.6.6)


家畜人ヤプー

 「戦後最大の奇書」「世紀の奇書」と言われる『家畜人ヤプー』を読んでいる。文庫本五巻の大部であり、まだ一巻の半ばを読書中なのだが、その奇書ぶりたるやとても「戦後」「世紀」などとは区切れないものだと思える。「空前の奇書」と呼びたい。
 この本、何と言っても読んでいて気持ち悪くなる。日本人の一人として、この本に不快感を感ぜずに読むのは至難の業だ。この本の世界である20世紀後の世界は【白人のみが人間であり、黒人は奴隷、日本人は家畜】という恐るべきものなのだ。しかも只の家畜ならまだしもエロ・グロ・スカトロの世界での家畜である。とてもここで筆にするのが憚れる内容だ。
 私もいっぱしのリアリストのつもりであった。時と場合に応じて、主観を配し客観をもって事態に当たる用意はあるつもりでもあった。しかしこれは無理だ……この本の倒錯世界に引きずり込まれ、読むのを止められなくなりながらも、心の奥底が悲鳴を上げてしまう。しかし止められない…おぞましい筈なのに、そこには妖しい魅力が確かにあるから…。

 今日、職場のマガジンラックに「椅子カタログ」という冊子を見た。「椅子」「カタログ」……なんでも無い筈の言葉の羅列にも妖しい鼓動が私の胸に高鳴る。『ヤプー』の世界から現実に戻りきれていないのだろうか…。
 全てを読み終わった時、私はどうなっているのだろう。それともどうにもなっていないのか。

 ふと、宮本武蔵の生涯を材に採った漫画で以下のような場面があったのを思い出す。事実かフィクションかは知らない。漫画の題名も忘れてしまった。
若き日の武蔵が己の煩悩を捨てる為に好きな女性を浚い(さらい)、柱に縛り付け、三日三晩、見続ける。女性は当然排泄をする。それを見続けた末、武蔵は悟る、「所詮、人間は糞袋」と。
 ここではこの挿話の善悪を語りたいのではない。善悪で言えば、この武蔵の行動はあまりに自分本位であり、乱暴であり、非人道的だ。しかし、この乱暴な方法論から導き出された解はどうだろう。得ることのできる何物かがあるのではないだろうか。

 私は、自身日本人でありながらこうも徹底的に日本人を貶めた奇書を書いた沼正三の真意は量れない。最後まで読めばわかるのだろうか?いや、どうもそれでも量れなさそうな予感がするのだ。
 著者の真意は量れないが、私個人として、この読書には前記宮本武蔵の挿話と同じ収穫があればと願いたい。…そう願って読み続けているのだと自分を納得させる方便かも知れない……ただ単にその妖しい魅力に魅入られているというのが本当かもしれない…。
 千々に心乱れつつ、頁を繰る(くる)手は止まず…。

 (2000.6.5)

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I use "ルビふりマクロ".